コミュニケーションについての雑感② 「社会性と社交性は区別しましょう」

「コミュニケーション能力がない」と悩んでいる方々の話をよく聞いてみると「みんなとワイワイ騒ぐことができない」「誰とでも仲良く盛り上がることができない」のが大きな理由、というのがよくあります。だからコミュニケーション能力が自分には欠けている・・・・社会人の方々だと「自分には 社会性がない 。だから職場でも打ち解けられずに孤立している」とおっしゃる方々も多いです。

でもそういうことって厳密にいうと「社会性の問題」ではなく「社交性」の部類なんですよね。

「社会性」というのは言ってみればこの人間社会の中で最低限持っていなければならない良識ある行動のことです。これは確かになくてはまずい。自分の身勝手さを「自由」の名のもとにさらけだして、他人の自由や権利をふみにじることは許されないことです。

(とはいっても じゃあ我慢だけしろというのか! という反論が必ずでてくるのですが、これはもう少しあとでふれます)

でも、誰とでもすぐに仲良くなれる、みんなで一緒に騒げる 等々のことは、社会生活を営む人間として必ず備えておかなければならないものではないんですよね。

一般に日本人は昔からこういうのが得意でない人達が少なからずいました。人に対して愛想よくするとか、いつも笑顔をたやさないとかが苦手な人は普通でした。特に男性なんてそうだったと思います。

立場によっては、「やたらとしゃべらない」ということも躾けられました。

私の小学生の頃などは、ベテランの先生方は戦前の教育を受けていた世代。年配の先生方などは国民学校の先生をしていたとかという、そんな先生方が学校内にけっこういらっしゃる時代でした。だから例えば男子が大きな声でおしゃべりしていると「男のくせにベラベラしゃべっているのは、みっともない 黙りなさい!」と叱りつけていましたね。女の子たちもキャーキャー笑いながら騒いでいると「歯をみせて笑うんじゃありません!笑う時は静かに口元を手で隠しなさい!」とビシッと叱られる。

そういう躾にこだわる大人達が多数派でした。

それがテレビなどの影響もあって外国のテレビ番組なども放送されるようになり、だんだんと日本人の行動も欧米化してきたわけです。「陽気にワイワイ騒ごうぜ!」という感じ。黙々と黙って勉強や運動の練習や仕事をする・・・・辛いことでも黙って耐え忍ぶことが美徳だったのがガラガラとかわっていきました。私は観た事はないですが映画「日本一のゴマすり男」(1965)などは、高度経済成長で黙々と頑張るサラリーマンを笑い飛ばすような内容だったようです。

そんな流れの中、今でも印象に残っているのがサッポロビールのCM 国際的俳優である三船敏郎さんがググっと飲んで一言「男は黙ってサッポロビール」   大ヒットCMでした。かつての「黙る美学」への回帰の流れがちょっと働いたのでしょうね。三船敏郎といえば黒澤明の映画でも有名ですが、用心棒 でも 椿三十郎 でも 余計なことはしゃべらない。しゃべらないゆえの凄み。

その方が断然カッコよかったわけです。


三船敏郎に限らず、時代劇などでよくみられる演出で、弱い侍の方が言葉が多いですよね。それに対して黙って剣を構えている方が圧倒的に強くみえる。闘う前から結果はみえている。

女性の場合も「奥ゆかしさ」がある方が美しいとされた・・・・人間を超越しての美しさといってもいいかもしれません。


こんなことをクドクド書いているのも、その頃に戻りましょう ということが言いたいのではありません。もともそそういう生活を長い間してきたのが日本民族ということを確認しておきたいのです。つまり「社交性」はそんなに重視しないで生活してきた。

それがあまりにも急激に欧米流の社交術を身に着けよう、なんて世の中が変化したことに、相当な無理がきてしまったという一面もあるのではないかと。

だから社会人としての礼儀も一線もちゃんとわきまえているのに、みんなと騒ぐのが苦手等々というだけで、自分はコミュニケーション能力がない、と落ち込み、自己否定に陥ってしまうのは個人の問題ではないといいたいのです。そういう人達も、もう少し前の時代に生まれていたら、逆に「お手本」となった可能性だってあるわけです。

自分はまず「社会性の欠如ではない」と認められるならば、まずその部分は肯定してあげませんか、と言いたいのです。社会生活を送れているというのは、人間としてのコミュニケーションが出来ている何よりもの証拠なのですから。

コミュニケーションができていない人に社会性ある生活は送る事などできません。